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コンコルド広場の歴史とオベリスクに込められた意味

パリの中心にあるコンコルド広場(Place de la Concorde)は、一年を通して多くの観光客が訪れる場所です。

 

パリオリンピック2024では、ブレイキンやスケートボードなどの都市型スポーツの会場としても注目されました。

 

コンコルド広場の中央にはオベリスクと呼ばれる石の塔が立ち、広場にある噴水も有名です。

 

今回は、コンコルド広場の歴史、広場にそびえるオベリスクの意味、そしてパリオリンピックビにとの繋がりについて詳しくご紹介していきます!

コンコルド広場の歴史

コンコルド広場は、フランスの歴史のなかで、重要な舞台になった場です。Googleアースで見ると、ちょうどオリンピックの準備中の画像が出てきました。

 

ところで、このコンコルド広場はその歴史を物語るように、名前も変わってきました。その流れを追ってみましょう。

ルイ15世広場

1755年にルイ15世の命令で広場の建設が始まり、当初は「ルイ15世広場(Place Louis XV)」

と呼ばれていました。設計したのは建築家のアンジュ・ジャック=ガブリエル氏。

広場の建設が完了すると、ルイ15世の騎馬像が設置されました。

革命広場

しかし、1789年にフランス革命が勃発すると、広場の名前が「ルイ15世広場」から「革命広場(Place de la Révolution)」に変更されました。

 

フランス革命が進むにつれて、ルイ15世の騎馬像が取り壊されました。

そして、1793年にはルイ16世やマリー・アントワネットがギロチンで処刑されました。二人を含め、1343人が処刑された場なので、この広場はとても悲しい歴史を持つ場でもあるんですね。

コンコルド広場

1795年には「コンコルド広場(Place de la Concorde)」と改名されました。コンコルドは「調和」という意味。

 

フランス革命後の和解と平和を象徴して、名称が変わりました。新しい時代の平和を願う意味を込められています。

現在のコンコルド広場は1840年に完成しました。

オベリスクに込められた意味

コンコルド広場にある白い塔オベリスク。コンコルド広場から、エッフェル塔や凱旋門、オランジェリー美術館などを見ることができます。

 

フランスで作られた建築物に混じり、エジプトのオベリスクがなぜここにあるのでしょうか。

オベリスクが運ばれた時期

オベリスクは古代テーベで作られ、その後エジプトのルクソール宮殿の前に立っていたもの。

エジプトではオベリスクは太陽神ラーに捧げられた記念碑です。

 

エジプトの国王ムハンマド・アリーから贈られ、ナポレオン3世の時代の1836年にフランスに運ばれました。ナポレオンが戦利品としてエジプト遠征の時に持ち帰ったのです。

 

このオベリスクは、高さ約23メートル、重さ約227トン。これだけの重さのオベリスクを船に乗せて、よく運んだものだと思います。本当に不思議ですね。

 

オベリスクの表面には王や神の名前などがヒエログリフで書かれています。

オベリスクは太陽神ラーや王の権威を表すこともあって、さまざまな国から戦利品としてしばしば奪われていました。

フランスのオベリスクもそのような流れでここに辿り着いたのです。

クレオパトラと関係があるのか?

オベリスクは「クレオパトラの針」とも呼ばれることもあり、クレオパトラと何か関係があるのではないかと言われます。

 

実際のところ、オベリスクとクレオパトラには直接的な関係はありません。

 

クレオパトラは紀元前51年から30年までエジプトを統治した最後のプトレマイオス朝の女王であり、その時代のエジプトの文化と遺産が今も強く残っています。

 

オベリスクは、古代エジプトの偉大な文明を象徴するもの。その一部としてクレオパトラの時代の栄光をも思い起こさせるのですね。

 

クレオパトラ自体には直接の関係はありませんが、その時代のエジプトの文化的象徴として、この名前が広く認識されています。

まとめ

今回はパリのコンコルド広場の歴史、オベリスクの意味などについて、お伝えしてきました。

コンコルド広場は悲しい歴史を持つ場ですが、戦いの反省から未来の平和を願う場所へと名称変更され、今日に至ります。

パリオリンピックではその平和を願う場で、ブレイキン・スケートボードなどの都市型スポーツの会場として使用されます。新しい歴史を刻む瞬間が近づいていると思うと、ワクワクしますね。

今日もお読みくださり、ありがとうございます!